ぶ〜たんの刻の涙 Third Phase

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zoom RSS 【保守】陰の造りと陽の造り

<<   作成日時 : 2017/03/02 20:19   >>

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先日、俺っち芳しくない刀剣誌上鑑定の成績を上梓したわけですが、そこでしらさぎ様に全体を通したありがたいアドバイスをまたいただきました。
ご指摘通り刀姿は重要です。そして何気に俺っちは刃文よりは刀姿地鉄の鑑賞を好みます(正直を言うと働きの豊富な古刀の刃中はかなり目が疲れる)。
ところで今回、ご指摘のあった刀姿に関連し、最近話題になったことがあったので、今回はそれを記事にしてみようと思う次第です。

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正月、刀屋さんに行ったときに末備前、忠光だったか後代祐光か後代則光だったか、の二尺そこそこの打刀、反り高く地鉄清涼で乱れ映りのはっきりした、少々複式の混じる互の目丁子乱れの年紀入り重要刀剣を見せていただいた。

ぶ「注文打ちですか、いい御刀ですね。」
店「いいでしょう。うちの社長もこの手の作風が好きなんですよ。」
ぶ「それって『末備前に始まり末備前に終わる』ということですかね。」
店「うーん、そういう意味ではなくて、、、例えばこの刀どんなところがいいと思います?」
ぶ「刃文も技巧はあるけど作為的でなく自然ですし、鉄もきれいですし、優しい姿ですね。」
店「そう、姿ですね。。。『陰の造り』とでもいいましょうか。」

戦国時代の刀姿は鉄砲前の二尺そこそこで先反のついた姿から鉄砲後は定寸くらいまで寸が延びていくが、基本的には反り強く重ね厚い豪壮な姿というのが一般的な掟である。この末備前の体配は細身で優雅、研ぎ減り込みで重ねもせいぜい尋常なので、その掟からは外れている。
単に注文打ち、そういう注文があったからだけなのか、と考えるのは易いが、刀姿の変遷における要素に『陰陽の造り』という見方があるのでは、という話になった。少なくとも現在の刀姿変遷の説明だけでは、この体配の末備前が存在するには不足である。
俺っちの経験からは、陰陽の造りという言葉は、(そもそも見かけることも少ないが)経験上鎌倉期以前の古刀に使われている気がしていたが、陰の造りの末古刀の現物を見せつけられると、古刀期全般に陰陽の造り分けの概念があった可能性を感じる。

さて、陰の造り、陽の造りの観点から刀姿の変遷を考えると、あらためて刀姿の変遷は陰陽の流行の変化ではと思える。

藤末鎌初:陰
鎌倉中期:陽
鎌倉後期:陰
南北朝期:陽
室町初期:陰
戦国期:陽

造り分けをしていたか、あるいはしていなかったかはわからないが、刀姿の掟に外れた、流行とならなかった刀姿がその時代に存在した訳は何だったのか。刀姿の流行り廃りが実用面を中心になされたとすれば、流行でない刀姿の存在は、そうでない理由、宗教的風俗的な理由に基づく需要があるのではないか。また、前時代の優作の「写し」という形での文化的な理由も考えられないか。

考え出すといろいろな想像は出るものの、あまり根拠となる資料がないので妄想の域を出ない。今はとりま鑑定眼だけでなくこういう学術的なことも深めながら、これからも刀剣の世界に浸っていたいと思う。

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(余談)以下はその時代の造りに反すると俺っちが考える刀である。

画像@大正恒(藤末鎌初の陽の造り)
備前刀剣王国第1期で展示されていたのが初見で、今開催中の代々木感謝祭でも飾られているかと。重文。
地肌・刃文はおおよそ正恒らしい作風であったと記憶しているが、長寸小鋒反り高く細身、という藤末鎌初体配の掟に対し、鎌倉中期の元先の幅差のない豪快な姿、陽の造りに感じる。








画像A無銘福岡一文字(鎌倉中期の陰の造り)
刀剣博物館所蔵の重文で、以前俺っちの好きな刀三選にもチョイスした逸品。
鎌倉中期福岡一文字最盛期の華やかな重花丁子に一文字らしいやや立った肌。しかし体配はどう考えても細身小鋒の藤末鎌初体配。どこかの書籍で鎌倉中期作で貴族向けの陰の造りではという記事を見たことあり。









画像Bうちのムネリン(鎌倉中期の陰の造り)
上述のそうそうたるメンツと同列に扱うのは恐縮ですが、そもそも俺っちが陰陽の造りに興味を抱くようになったきっかけはこいつです(こいつとか言っていはいけないですね、うちの御刀様です)。
ムネリン、在銘備前三郎国宗の太刀。何気に重要刀剣。二尺四寸八分、反り九分強、元幅九分、先幅五分弱。
備前三郎国宗は代別説もあるものの、鎌倉中期から後期にかけての刀工で、基本的には鎌倉中期の元先の差のつかない猪首で豪壮な体配・刃文に優作がある。後期におとなしい体配・刃文になるとされるが、それにしてもムネリンは法量の通り小鋒(ホント小指くらい)で、日枝則宗にも似た優雅な藤末鎌初体配をしている(手前味噌)。
ムネリンを入手するときその体配への疑義から刀屋さんに「国宗なら体配が掟違いなのは?」と聞いたがところ、国宗の作刀時代への疑問(鎌倉前期にも作刀か)を指摘されたのだが、刀姿の掟の定義に不足がある可能性が高いように感じる。


C今回拝見した末備前と俺っちが初めて所持した末備前(戦国期の陰の造り)
俺っちが初めて所有したのは「備州長船祐定」銘の打刀。
今後趣味となるかどうかを含めて勉強のために購入したもので高いものでなく、先をだいぶ「やっている」ところもあったが、そういえば今回拝見した末備前と体配はそっくり。

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コメント(5件)

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ぶーたん様
大変ご無沙汰でした。
仕事上の緊急事態が発生し、追われる日々が続きましたが何とか乗り越えたと勝手に思っています。

刀姿についてのお話ですが、刀姿は約50〜60年の期間で変遷しています。
私達が「その時代の掟」と捉えている姿は、その特徴が最高潮に達した時点のものであり、その姿はせいぜい20年間ぐらいの期間の様に思います。
前の20年は、「前の姿」より徐々に「現在姿」に移っていく期間であり、
後の20年は、「現在姿」より徐々に「次の姿」に移っていく期間と思います。
移行期の姿は「前の姿」に近かったり、また「次の姿」に近いものになると思います。

★「末備前」
文明〜天文(中期)頃は、寸詰まり、身幅は尋常もしくは細身、幅差つき、中鋒の姿が多い。
天文(中期)以降は、寸のび、身幅広く、幅差少なく、中鋒延びた姿に移っていきます。

「末備前」を文明〜古刀末期までと考えますと、約130年となります。
一人の刀工の作刀期間を30年としますと、約4代になります。
4代と言えば、自分・父親・祖父・曽祖父までの時代差があります。
この時代差をすべて同じ姿で決めてしまうことは不可能かと思います。

私達が捉えている「時代の姿」は、あくまで「その時代の最高潮」に達した限られた期間の姿であり、単純にその時代の全期間の姿ではないという事だと思います。




しらさぎ
2017/03/23 01:34
コメントありがとうございます。
この記事にコメント頂けたのは嬉しいです。
そしてお仕事お疲れ様でした。緊急事態にてのご苦労とご心労、お察しいたします。
俺っちも来月は業務上少しバタバタしそうです。
なんとか4月の誌上鑑定は幸先のいいスタートを切りたいのですが。

刀姿の件、ご指摘はごもっともな話です。
どこかのタイミングで一気に刀姿が切り替わるのではなく、実需の要請、流行などを踏まえて徐々に変遷していくものだと思います。
さらに同じ時期でも、トレンドが中央から地方に伝播する時間差による地域差もあり、また、大和は重ねのトレンドにかかわらず鎬高め、備前は反りのトレンドにかかわらず腰反ごころなど全時代的な地域個性も無視できないと考えています。
ぶ〜たんの刻の涙
2017/03/23 20:29
さて、今回の記事の大きな前提としては、ご指摘のところにあまり触れずに、刀剣博物館の刀姿の変遷図のように紋切的に刀姿を語る、昨今の日本刀ブームの中での日本刀知識の供給サイドに対する若干のアンチテーゼがあります。
(誤解なきよう補足しますが、変遷図は協会が万事重々承知の上でわかりやすく作成したと理解していますが、ブームの中でそれらを利用し、あるいはそのわかりやすく簡略したアプローチを絶対として、安直な解釈を講じていると思われる様々な日本刀ニワカ情報源に対してのアンチテーゼです)

そして、4つの例示から古刀期を通し当時の一般的な刀姿と異なる刀姿が存在する事実に触れたうえで、そこに現在の「刀姿の変遷」で語られない「刀姿の要素」があるのでは、と考察するのがこの記事のメインテーマです。
ご指摘に見られる「前時代の影響の残る姿」「後代の萌芽」と解釈することも考えられますが、別の視点からの仮説アプローチとして、今認識されている刀姿の要素とは異なる、「陰陽の造り分け」の概念・規範があったのでは、と論点を提起したものとなっています。

記事の福岡一文字で触れていますが、鎌倉中期の豪壮な陽の体配とは関係なく貴族向けに前時代的な陰の体配が作られていたのであれば、それは現在語られる刀姿の変遷とは別の価値観で特定の刀姿が作られ続けた、ならこういったところを集め、ここに一定の規範があるのかどうか、これを追求してみたいというところです。

アカデミックを気取って恐縮ですが、まだ刀屋さんの宿題の備忘程度で、正直論ずるに足るレベルでもなく、仮説形成にすら至っていないのですが。
ぶ〜たんの刻の涙
2017/03/23 20:31
ぶーたん様
立入検査はなんとか無事に終わり、開放感に浸っています。

「時代の姿」に反すると考えられている刀の件です。
私も以前は同様に思っていた時期がありましたが、現在はこの様にとらえています。
@大正恒
「古備前」は、鎌倉初期で衰退したと考えずに、名跡(正恒・包平・真恒など)は鎌倉中期頃まで細々と継承され、「長船派」に繋がったと考えています。
福岡では「一文字派」が作刀し、長船では「古備前」が作刀していたと考えます。
したがって「大正恒」や「大包平」などは鎌倉中期に近い時代の太刀と考えています。

A一文字(陰の造り)
鎌倉中期頃の「福岡一文字派」は、身幅の広い豪壮な姿をイメージしますが、そればかりではない様に思います。
中期では、吉房・則房・助真などが有名ですが、
「吉房」は、大別して4通りの作風があり、3通りの銘があると言われています。
身幅は狭く、焼き刃の高い作風が結構あります。
「則房」は、細身の姿が大部分です。
「助真」は、豪壮な姿が多い中、やはり尋常な姿が現存しています。
これらは、仰る様に依頼主の要望、代別の関係、刀工の作風などが考えられ
あまり一定の規範までは纏まりません。
ただし、細身、尋常な姿の太刀であっても、元先の幅差は開かず、猪首鋒は共通していると鑑ています。

C末備前(陰の造り)
これは時代の姿と考えています。
鉄砲伝来(天文12年頃)から、徐々に戦闘方式が変わり、刀の姿も変わっていると思います。
・文明−明応−永正−天文(中期)= 身幅尋常(細身)、幅差つき、中鋒。
・天文(中期)−永禄−天正−古刀末=身幅広く、幅差少なく、中鋒のびる。
しらさぎ
2017/03/28 21:36
しらさぎ様
コメントありがとうございます。また、立ち入り検査お疲れ様でした。

古備前が鎌倉中期まで残り、長船に繋がったとのお話は、友成に嘉禎(1235-37)年紀の作があったり、長船の始祖光忠の初期作が沸の強い作風から古備前光忠とされる太刀もあるらしく(得能先生「日本刀図鑑」より)、頷ける話だと思います。
俺っち自身も、古備前吉包極めの大磨上刀を所有していた時期もありました(吉包は過去のブログ記事に写真含め載せてたかと思います)。
元先がさまで差がつかない体配、単調ながら小丁子大丁子で構成された刃文から古備前とはいえだいぶ鎌倉に入っているとな考えていました。

あと少しで新年度になりますが、今後ともご指導ご鞭撻宜しくお願いします。
ぶ〜たんの刻の涙
2017/03/29 20:35

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